第一章  初めての海外旅行 〜1994年夏〜
到着編



 1994年の夏休み前、ちょうど大学4年の就職活動をしている中(実際には情報誌をめくっていただけ)どうしてもやってみたい仕事が無く、小学生の頃から夢にみていたギタリスト(あの当時はロックギタリスト)の道に進んでみようという気持ちが日増しに強くなっていた。大学に入ってから始めたクラシックギターに魅せられて頭の中には「スペイン」という今までまったく興味の無かった国が一気に頭の中をぐるぐる回り始めた。実際にスペインの首都はバルセローナだと思っていた。(たぶんオリンピックのせい)

 大学の第二外国語でスペイン語を教わっていた米田先生に事の内容を相談すると、「最初は語学から」との一言で留学先はサラマンカに決定(この街とバジャドリードはきれいなスペイン語を話すと言われている。) そこでスペイン語を教えているエンリケ先生を紹介してもらう。彼の奥様は日本人だったので語学学校への登録とか、ホームステイ先の手配などは日本語でOKだった。

 9月と10月の第一週目までの予定で旅行代理店に格安航空券と初日のに夜のホテルの予約を行なった。いよいよ初めての海外旅行の始まりである。

 当然の事ながら飛行機に乗るのも初めてだ。日本では一番安い航空会社といえばアエロフロートと決まっていた。(少なくともあの当時は) 成田からモスクワまではとてもきれいな飛行機だったし、機内食も噂ほどには悪いとは思わなかった。(スチュワーデスは髭が生えているとまで言い放った友人もいた。)
 乗り換えのために下りた空港内はとても寂しくどんよりと暗い雰囲気が漂っていた。
モスクワからマドリードまでの飛行機はびっくりするほど古いもので、床のじゅうたんは動くし、窓側に座ったらどこからか風が入ってくるし(これは今でも気のせいであったと思いたい)、無事に着陸したら皆拍手して喜んでいる姿を見たりと信じがたいものがあった。この後、種々の航空会社を利用する機会に恵まれたが、離陸、着陸のスムーズさはアエロフロートが一番だと思っている。

 夜10時頃予定通りマドリード、バラハス空港に到着。当然迎えに来てくれる友人知人などはおらず、紙切れに書いた「HOTEL MADRID」をタクシーの運転手に見せるだけである。

 いきなりのハプニングはスペイン第一日目から始まるとは夢にも思っていなかった... 
 
 タクシーの運転手が「ここだよ」というようなことを言いながら、寂しい通りに車を止める。3千ペセタを払い一階にあるフロントまで重い荷物を抱えて階段を上がる。(もしかしたらエレベーターもあったのかも知れないが、少なくとも私の目にはとまらなかった。) 
 
 レセプションの若いハンサムなお兄さんに日本で予約したホテルのバウチャーを見せると「ここのホテルではない」というようなことを言っている。私は夢にもそんなことは思っていないから「何が言いたいんだろう」と考え込んでしまった。するとその彼はそばに立てかけてあった街の地図を目の前に広げ、「君は今ここにいて、ここの通りのホテルに行かなくてはいけない」と赤いボールペンで印を付けてくれる。よくよくここのホテル名を見ると「HOTEL EURO MADRID」と書いてあるではないか! タクシーの運ちゃんの勘違いによって私はギターとスポーツバッグを肩から下げ、スーツケースをゴロゴロいわせながら10分ほど歩くはめになってしまったのである。

 
 いくら地図を渡されてもまったく来たことの無い土地で右も左も言葉も分からないのに一人で目的の場所を探すのは不可能に思えた。かと言ってまたタクシーを拾う程の距離でもないみたいなのである。日本で丸暗記した「フレーズ集」の一文を使うことにした。まず最初に二人組のかわいい女の子達に" Donde esta (el) Hotel Madrid?"(マドリードホテルはどこですか)と尋ねる。私の言ったことはどうにか通じたみたいで、すごい勢いで説明してくれる。しかし何を言っているのかさっぱり分からない。とりあえず"Gracias"(ありがとう)と言い、指をさした方向に歩くのみである。
 
 この時初めて痛感したのは、海外旅行用の言葉のガイドブックはほとんど役に立たないということである。質問の仕方は山ほどあり、あらゆる場面でのフレーズが出ているが、うっかり現地の言葉を話したために質問されたほうはてっきりその言葉が分かるものとして答えてくれるのである。この後二回ほど同じ質問を繰り返すと皆同じ方向を指したのでなんとか目指すホテルにたどり着くことができた。

 
 レセプションに着くなり英語で「アズマさんですね?」と聞かれてほっとした。もしかしたら前のホテルの人が連絡しておいてくれたのかも知れない。

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